映画狂人にはなれない

映画狂人にはなれない

自意識の墓場

佐藤真・牛腸茂雄『SELF AND OTHERS』感想

 牛腸茂雄の写真、とりわけ『SELF AND OTHERS』に収められた写真には、こちらを見つめてくる写真が多いことはよく知っているつもりだった。はじめてこの写真集と大学図書館の地下書庫で遭遇した二十歳の時、煽情的なものを目にした時の後ろめたさとは全く違うけれども、なんだか写真集をじっくりと観賞するのがつらくなってすぐに閉じてしまったし、再び開いた日にも足早にページを繰ってしまった記憶がよく残っている。

 佐藤真の映画『SELF AND OTHERS』は、牛腸の残した写真や映像で構成されたドキュメンタリーであるが、たった50分とは言えかなりの重厚感がある作品だと思う。というのも、この映画では牛腸が残した、被写体が見つめてくるタイプの写真が次々とスライドショー形式で流れるために、(自ら目を閉じたりしない限りは)牛腸の写真を見る時に感じるあのつらさから逃げることが許されないのだ。

 

f:id:baltanien:20201108023945j:image

f:id:baltanien:20201108023950j:image

f:id:baltanien:20201108023937j:image

 

  どうして牛腸の写真を見るのがつらいのだろうか。サルトルが言うように、見つめられるという行為によって恥を感じるからなのだろうか。だが、相手は写真の中の人物であり、目の前に肉体を持って存在している人物ではない。たしかに写真とは「かつてあった」実物を収めるのだから被写体は実在の人物ではあるものの、今、私たちが写真を見つめるこの時においては彼らは目の前にはいないのだから、我々の(一方的に見つめているという)優位性はかろうじて保たれているのではないか。そうだとすると、そこまで私たちは恥を感じるだろうか。

 

 私たちは驚くほどに他人の顔を見ていないものだ。嘘だと思うのなら、親の、友人の、恋人の顔を頭の中で思い浮かべてみればいい。きっと明白には思い出せないはずだ。初対面の相手の顔などはとりわけしっかりと見ていないわけで、そのことに助けられて、恋が始まることだってある。

 

もし、彼女があれほど黒い眼をしていなかったとしたら―― 実際、最初に見たときは誰でも強い印象を与えられる眼だった――、私は、現実とは違って、これほど恋することはなかっただろう、少女のあの青い眼に。(プルースト『失われた時を求めて』

 

  恥の意識があろうとなかろうと、人間は他者の顔を正面から見つめるということに驚くほど慣れていない。だから牛腸の正面から顔を映す写真を何枚も連続して見せられる時、人は慣れないことをしているストレス故につらさを感じるのではないか。

 

 ダヴィット・ル・ブルトン『顔について(Des Visages)』という本でまとめていたのだが、顔には人間の自己同一性が、そして他者との差異を実感させる単一性のしるしが刻まれているために、個人の消失が目指された強制収容所では顔の破壊がなされたという。まさに『パリの灯は遠く』の冒頭のシーンである。SSの者たちが畏れるほどに顔というのは偉大な力をもったものなのだ。だが私たちが日常生活でその力を意識することはとても少ない。

  牛腸の顔を映した写真たちには、その忘れかけられた顔の力を想起させるだけの強度がある。だが顔がその強度を持ちうることを知るためには、正面から顔を見つめなくてはならない。しかし私たちはきっと目を背けてしまうだろう。そんな時、佐藤のこの映画は最大限の力を発揮する。強制的に一定の速度で、牛腸の残した写真を我々に提示する佐藤の映画こそが、人間の顔の、そして牛腸茂雄の写真の強度を伝えてくれるのだ。

 

 

SELF AND OTHERS [DVD]

SELF AND OTHERS [DVD]

  • 発売日: 2009/12/19
  • メディア: DVD
 

『さらば夏の光』感想:なぜ、ロケ撮影か

f:id:baltanien:20201021025739j:plain

 

 私の大学の卒業論文マルグリット・デュラスだった。私が文学部出身なのを知って「卒論は何だったのですか」と聞いてくれる人がたまにいたりして、その時にこの作家の名前を出すことがあるのだが、思ったよりも伝わらなくてびっくりする。とりわけ、こうした質問をしてくれるのは大抵が中年以上の人なのもあって、『ラマン』の映画化を通じててっきりデュラスは人口に膾炙した作家だと思っていたからだ。

 そんな『ラマン』すら忘れかけられているデュラスには、『二十四時間の情事』という言わずもがなな名作があるのだが、この映画の衝撃はなかなか大きいものだと思う。つまり、かっこいいな、まねしたいなと思わせるようなカットやセリフが多くある映画なのだ。そして、1968年の日本映画『さらば夏の光』(吉田喜重監督)はまさに『二十四時間の情事』の影響を受けている。一組の男女。すれ違う二人の不確かな記憶。二人の接点となる長崎という被爆地。不倫。ストーリー、セリフ共にデュラスそのまんまである。

 この映画がもちろんデュラスのパロディであることは誰の眼にも明白であるが、個人的にはヌーヴェルヴァーグ全般の影響が色濃い映画なのではないかと思う。というのも、見ていると《ああここは『気狂いピエロ』だな。ここは『去年マリエンバートで』だな》としばしば言いたくなる。だがこの映画とヌーヴェルヴァーグの影響関係だとか、デュラス=吉田の愛と不在や表象不可能性のテーマについてここで書くつもりはなくて、むしろこの映画を見て思うのは全く別のことなのだ。

 

 実はこの映画は日本航空とのタイアップ作品で、日本航空の協力によってオールロケで撮られている。海外渡航が自由化されたのは64年だから、その4年後のこの映画はもちろん国民への海外旅行の宣伝の効果も狙っていただろう。

 ちなみに『二十四時間の情事』も広島でのロケ撮影であり、その時のことについては写真家の港千尋が記した『愛の小さな歴史』に詳しい。(これは、エマニュエル・リヴァが撮影での来日時に撮ったとされる写真を始点として、まるで堀江敏幸の書物のようなエッセイ風のルポルタージュが綴られたとても美しい本だ)

  とはいえ『さらば夏の光』と『二十四時間の情事』には大きな相違がある。ロケをめぐる「本当らしさ」の問題だ。デュラスの描く土地がしばしば実際の地理的な特徴と矛盾していることはよく言及されることであり(こうした作中の土地は「デュラジア」と呼ばれたりもする)、『二十四時間の情事』においても広島が太平洋に接する設定がされている。一方で『さらば夏の光』においてはこうした地理的な矛盾は一切見られない。どちらの作品においても、愛と歴史(戦争)それぞれにおける「嘘」が重要な役割を果たしていることからも、地理的な「嘘」をデュラスが自らの作品に反映させるのはたしかに当然のように思われる。だが、一方であれほど丁寧にデュラスを模倣してみせた吉田監督は、故意に地理的な嘘は模倣しないことを選んだのだろうか(もはやこの映画は映像の世界地図ではないか)。あるいは監督の選択の意図が分からずとも、こうしたデュラスの仕掛けた罠が取り除かれた映画はいったいどんな効果を持ちうるのだろうか。

  もちろん先述したこの映画の制作された時代背景――海外旅行の自由化から間もない時代――を考慮すれば、この映画に担わされた役目が単なる芸術作品としてのものだけではなく、海外の観光地の広告としての役割、海外旅行を促進させるものでもあることは確かだろう。つまり、オールロケで丁寧にポルトガル、スペイン、フランス、スウェーデンデンマーク、オランダ、イタリアの街並みがおさめられたこの映画は、一種の海外旅行地図鑑なのだ。

 

 さて、詩的な表現を抜き去り図鑑を作成すること。それはかつて写真家の中平卓馬が志したことでもあった。68年という政治の季節に『プロヴォーク』を創刊し、ボケ・ブレを多用した写真を残した彼は、73年に『なぜ、植物図鑑か』によって自らのこれまでの手法を捨て去ることを宣言する。これまでの自らの作品を「ポエジー」が含まれているという点で断罪し、まるで若冲の絵画のような、無機質で対象が明白な写真を撮ることを宣言したのだ。その『なぜ、植物図鑑か』の中で、彼は次のように記している。

必然的に図鑑はポエジーや〈闇〉や〈薄明〉を受け付けない。だから図鑑はひょっとするとカタログに似ている。カタログもまたあらゆるあいまいさを排除して、商品をただ直截に指示するだけである。

 彼がロブ=グリエル・クレジオゴダールを引きながらこのように書き記すとき、そこで目指されたのは人間中心主義的な視点の、確固たる存在としての主体の解体であった。《私による世界の所有》を徹底して退けること。事物を事物そのものとして引き受けること。そうして、絶対的な《私》を中心とした視点による写真を、彼は詩的な甘ったれたものとして否定する。

 

 映画『さらば夏の光』は、海外旅行地のカタログである。私たちが飛行機を通じて消費することの出来る商品の羅列である。だが、オールロケで現実がただ写される映像とは矛盾するように、映画の台詞はあいまいで、「ポエジー」が残されている。われわれは、目の前で映像として流れ出る商品カタログと、詩的な言語のあいだで揺すられ続ける。

 この映画を見るとき、われわれは、言語と映像それぞれに担わされた相反する性質に惑わされるだろう。そのとき、鑑賞者としての《私》の足元は崩壊し、《私》は流れ出て、一つの存在たることはもはや不可能になるだろう。

 だがこれこそまさに、デュラスが「嘘」を用いて行った主体の解体である。この映画は、デュラスとは別の方法でありながら、デュラスと同じ効果を引き出している。

 

 

 

さらば夏の光 [DVD]

さらば夏の光 [DVD]

  • 発売日: 2005/11/25
  • メディア: DVD
 

 

『キラーコンドーム』ネタバレ感想:A感覚しか勝たん

 来月にアテネフランセオリヴェイラ『繻子の靴』を上映すると耳にして、急いでチケットを取ったのだけれど、高尚そうな映画の予定が立った反動か、クソ映画が見たくて仕方がない週末。ヴィレヴァン生まれ、古書ドリス育ちの自分はヌーヴェルヴァーグの小難しい映画よりもエロ映画、クソ映画が大好きだから『悪魔の毒々モンスター』とか『SEX発電』みたいなものが見たくて毎日うずうずしている。ちなみに個人的なクソ映画ベストは『世界の果てまでヒャッハー!』だ。

 それで、(随分と失礼な言い回しではあるが)オリヴェイラのチケットを買ってしまった口直しとして、前々から評判だけは耳にしていた『キラーコンドーム』を見た。

 

 中身はゲイの刑事がチンポを食いちぎるキラーコンドームを追うだけの単純明快。とはいえ、《昔の畜生たちは走っているときでさえ、亀頭を血と汚物だらけにして交尾していた》と言うランボー様もきっとこの映画を見ると、タマヒュン、フニャチン化間違い無しな映画だ。というのも、コンドームがチンポを金玉を次々と噛みちぎる噛みちぎる。生まれたときからチンポを股の間に持ってる身としては、これは本当につらい映像だ。いわば、『宮本から君へ』のあのシーンを何度も劇中見せられるような感覚。

  大体、ニューヨークが舞台で主人公の刑事はシチリア出身だというのに、アメリカ大統領候補含めて登場人物全員がドイツ語を話しているというB級クソ映画なんだけれど、歯の生えたキラーコンドームだけはなかなかクオリティ高くね?とか思ったら、H・R・ギーガーがデザインしたんだとか…。いやもしかしたら、単にチンポを取られる恐怖ゆえにクオリティが高く見えているだけかもしれないが。

 

f:id:baltanien:20201018123643j:image

f:id:baltanien:20201018123650j:image

 

  《うまいチンポだぞ よだれものだ》――こんな字幕を見ることはこの映画以外では絶対にないだろう……。

 大統領候補までもがチンポを噛みちぎられる一方で、刑事は自らのデカチンを囮に、隠し持ったガスホースをキラーコンドームに噛ませ、ガス注入で破裂させ、とりあえず一匹は捕獲&処理。(この前のシーンで『サイコ』マルパクりシーンがあり苦笑い)

 

 そもそもどうしてこんなキラーコンドームなんてものが世の中に出てきたのかと言うと、ある女医が聖書のソドミーの禁止の記述を真に受けて、科学者を監禁して軟体生物を遺伝子組み換えさせたコンドーム風の生物兵器を作らせていたのだということが終わりかけに判明する。

 とはいえ、稲垣足穂先生の『少年愛の美学』でもシェイクスピア大先生の「ソネット十八番」でも同性愛は賛美されていたわけで、やっぱりこの映画もA感覚の大勝利によって幕を閉じる。とうとうキラーコンドームの出どころを突き止めた刑事は、犯人に説法を説く。

 

f:id:baltanien:20201018123510j:image

f:id:baltanien:20201018123519j:image

f:id:baltanien:20201018123619j:image

 

散々クソ映画やってきたくせにラストは結構まともで泣かせる。

 

  こういう映画は、池袋の注文する度に店員にちゃんと伝わってるの伝わってないのか不安になるような適当で汚い中華料理屋とか火鍋屋で飲んで終電逃した後、「仕方がないから新文芸坐のオールナイトでも行くか」と、オールナイトに途中参入した際にかかっていてほしい。新文芸坐は「魅惑のクソ映画の世界」とかいう題目で月一でオールナイトやってくれればいいのに……。

 

 せっかく映画がAの勝利にて幕を閉じたのだから、偉大なるランボーヴェルレーヌ合作の「尻の穴のソネット」を引用してこの文章も閉じることにしよう。

 

紫のカーネーションのように暗くて、皺がよったそいつは、

息をしている、まだ愛に濡れそぼった苔のあいだに

控えめにうずくまり、その折り返しの縁にいたるまで

白い尻の穏やかな勾配にしたがっている。

 

乳の涙にも似た糸状の筋は

赤茶色の泥灰土の小石のあいだをぬって

それらを押し返す容赦のない烈風を受けて涙を流し、

下り坂が呼んでいたところへと消えていった。

 

俺の夢はしばしば吸盤に接合された。

俺の魂は物質の交合に嫉妬して、

そいつを野獣の眼下腺と啜り泣きの巣に変えたのだ。

 

それはぼうっとなったオリーブと甘えたフルートであり、

天上のアーモンドクリームの降りてくるチューブ、

湿り気のなかに閉じ込められた女性のカナンの地なのだ。

(鈴木創士訳)

 

キラーコンドーム [DVD]

キラーコンドーム [DVD]

  • 発売日: 1999/11/25
  • メディア: DVD
 

『最後の晩餐』感想:たまきんカタログ

f:id:baltanien:20201003164731j:plain

 自分は未だにエロ・グロ・汚物にゲスな興味をそそられずにはいられない人間で、フランソワ・ラブレー『ガルガンチュアとパンタグリュエル』の「たまきんカタログ」とかに大喜びしている人間だ。(「たまきんカタログ」は本当に最高だから全文引用したいのだが、文庫で7頁とあまりに長いので冒頭だけ引用)

欠損たまきん、有名たまきん

でか足たまきん、ござ付きたまきん

青あざたまきん、乳垂れたまきん

フェルトたまきん、詰め物たまきん

まだらたまきん、持ち上げたまきん

化粧漆喰たまきん、グロテスク模様たまきん

アラベスク模様たまきん、すじがねたまきん

(宮下志郎訳)

  もちろん『ガルガンチュア』というのは飽食の物語でもあるわけで、なんで唐突に『ガルガンチュア』の話をし出したかと言えばマルコ・フェレ―リ『最後の晩餐』を観ていたら思い出したからなのだ。

 

 物語は極めて単純で四人の男が一つの屋敷に籠って食べて吐いて下痢してヤってを死ぬまで繰り返すというだけの話。マストロヤンニがギャルの娼婦とヤリまくってるかと思いきや雪の降る庭で凍死しているし、ピコリがピンクのピチピチの服を着てキュートな様を見せてくれたかと思いきや糞を漏らしながら死ぬし、どいつもこいつもエネルギーが消尽するまでひたすら食って、女と寝て、クソをする(「する」というより「漏らす」)。

f:id:baltanien:20201003164930j:plain

 

  冒頭で挙げた『ガルガンチュア』との比較や、城内での酒池肉林というテーマから類似するサドの小説や『ソドムの市』との比較を行うのも妥当だろう。だが、私がここで行いたいのはむしろそれとは全く関係のないことである。

  マストロヤンニとピコリという一つの時代を象徴するような二人の俳優が実名役で出てくるわけであるが、こうした二人は一体どんな俳優だったのかと考える。すると、アンドレ・マルローやミシェル・トゥルニエのスター、アイドルへの定義の裏面から表出した俳優だったのではないかと思われる。

 マルローの考えるスター性については以前既に引用したから、今回はB・Bについて語るトゥルニエのエッセイから引用しよう。 

フランス映画の最後のアイドルは、ブリジット・バルドーだったが、アイドルは自らのもつさまざまな資質によるよりも、大衆がアイドルの中に注ぎ込む欲望と幻想のお陰でのし上がることができるのだ。

 (Tournier, Petites Proses.)

 

  アイドルやスターというものは我々が欲望を投影することによってそれとなるわけであるが、ピコリやマストロヤンニは欲望を集約する俳優ではないだろう。彼らは正反対に自らが欲望を発する姿を常に大衆に曝け出す存在である。アイドルが存在するからには私たちは当然ながら欲望「する」存在なのであり、ピコリやマストロヤンニは自らの身体でもって、欲望する存在としての人間を露わにする。

  『甘い生活』でも『軽蔑』でも、そしてもちろんこの映画でも、そこに現れるのは欲望する存在としての人間であり、余りに自明でありながらスターやアイドルが(半ば自覚的に)隠蔽した人間の姿を鑑賞者たちに自覚させる。

  力果てるまで食べてセックスしてクソを捻り出す。この映画に映っているのはただそれだけだ。けれども、それをピコリ=マストロヤンニが巧みに演じることで、私たちの日々の姿も映画内の(屋敷の中の)彼らと何ら変わらないことを自覚させる。

f:id:baltanien:20201003165018j:plain

 

 

最後の晩餐 [DVD]

最後の晩餐 [DVD]

  • 発売日: 2006/01/28
  • メディア: DVD
 

『ヨコハマメリー』感想:私はあなたの記憶の中に

 二十代の自分はその姿を見たことがあるはずもないのだが、彼女の容姿についてはよく知っている。白いドレスで、白塗りの顔、後ろで一つに結った白髪交じりの髪の毛、大きなボストンバック。私の世代にとって、メリーさんは都市伝説ではなく、既に一つの「歴史」となっていた。事実、私が彼女を初めて知ったのは小学生の頃に通っていた歯医者にあった森日出夫の写真集『PASS ハマのメリーさん』を通じてだった。

 映画『ヨコハマメリー』は彼女について教えてくれるドキュメンタリーであるが、「歴史=物語(histoire)」という概念についても私たちに再考させる。

 

 「歴史=物語」という概念を二十世紀に考察したベンヤミンは「物語作者」というエッセイの中で「経験(Erfahrung)」と「体験(Erlbnis)」を区別する。彼によれば「体験」は個人に属す共有不可能な出来事であるのに対し、「経験」は集合的なものでこれこそが口承で伝わってゆくものであるという。なるほどこれには私も同意できる概念である。それならば、映画で各人の語りによって伝えられるメリーさんは「経験」だったのだろうか。

 映画内でメリーさんについて証言する清水節子の「これは私が直接見た話ではないですけれどね」「これは伝聞ですから本当の真実は分からないのですけれど」という言葉はあまりに印象的だ。メリーさんは既に証言の不安定さの上に存在している。「直接見た話ではない」「本当の真実は分からない」。これらの言葉はメリーさんが既に個人の体験を離れて集合的な経験の次元に存在することをよく示しているようではないか。

  だが一方で、それでは歴史修正主義者たちに軍配が上がってしまうことも危ぶまれる。ここで「歴史修正主義」という語まで用いるのはさすがに行き過ぎだろうか。だが次のような言説の敷衍を用いる者がいるかもしれない。――清水節子の証言は不確定性に満ちている。だからメリーさんはそんなではないのではないか。メリーさんはそうではなかったはずだ。メリーさんはそうではない。メリーさんは存在しない。(正気であればその誤謬に気付くはずのこうした言説にさえ、慎重に前もって否を下しておかなければならないのかもしれないことは今日の社会からも明らかである。もしそれでもなお納得がいかないのであればランズマン『ショア』を参照せよ)

 メリーさんは間違いなく存在した。なんせ彼女を映したフィルムが残っている。清水節子やほかの証言者も、決して嘘をついているわけではないし、私たちを騙そうとしているわけでもない。そうだとするとメリーさんとは一体なんだったのか。やっぱりメリーさんは「経験」というよりも「体験」であったのではないか。

 

 ここでもう一度哲学者の解釈に戻るなら、よく知られているように、ベンヤミンは私たちの言う「歴史」が支配者の、勝者の側の解釈でしかないことを提言していた。だが、亡命者でもあった彼が重きを置いたのはもちろん勝者ではない名もなき個人の「歴史=物語」であった。しかし先述のエッセイで記されていることであるが、個人に属す「体験」は「歴史=物語」にはなれないのではないか。

 メリーさんが「体験」であったということは、口承で伝わったという点ではなく、実際に彼女と交友を持っていた者たちの声に耳を傾けるこの映画を観ることで肯定できる。彼女は都市伝説などではなく、伊勢佐木町に生きたひとりのれっきとした気高い女性であった。彼女の実際の映像や取り巻く人々の思い出話によって、メリーさんを「経験」から「体験」へと移してくれるのはこの映画の醍醐味だろう。そして、メリーさんが「歴史=物語」となる瞬間は、この映画を越えて、中島らもの短編小説に目を向けることで納得できる。

 

 中島らも「白いメリー」の主人公は、世間に蔓延る都市伝説を調査する中年男性のライターである。良きネタも得られぬ日々を過ごすある日、彼は娘から「メリーさん」についての噂話を聞かされて、娘の友人伝いにその噂について調べることにする。ある日、夜道で目前に大量のメリーさんの格好をした女性を目にし、その中に自らの娘も発見するが、娘に声をかけるや否や、女たちは消え、その年の初雪が降るという話である。

 ここでは白いメリーさんは、初雪が降るという結末の「物語」とされている。メリーさんは「経験」を越え、「体験」を通じ、「物語」となったのだ。メリーさんは経験でありながら体験であり、物語=歴史である。歴史の英雄ではない一個人が「歴史」であることを示して見せるのが、映画や小説というフィクションの役割であろう。この映画『ヨコハマメリー』内の証言の危うさ(これもフィクションの一形態だ)もまた、彼女についての記憶が残された者たちにノスタルジーをもたらすという点でもって、その役割を果たしている。

 

 

 

ヨコハマメリー

ヨコハマメリー

  • 発売日: 2016/02/10
  • メディア: Prime Video
 

 

 

*副題は角田光代の短編のタイトルから借用した。

映画狂人なれない日記(8.28-9.3)

・8月28日:『ニューオリンズ

 来週は時間があったら『真夏の夜のジャズ』4Kを観るかどうか迷っているけれど、なんせ同じ屋根の下にEGO-WRAPPIN'だとかSPANK HAPPYだとかに詳しい人がいるので少々物怖じ中。彼女は高校時代から音楽を漁りまくっていたみたいだが、自分はその頃日本文学を漁っていた。『豊穣の海』の主人公の気持ち分かる!!とか思っていた。

 とりあえずの前哨戦として『ニューオリンズ』を観る。ストーリーとかはどうでもよくて動く、歌うビリー・ホリデイを映画の中で観れて満足できる。ビリー・ホリデイについては、サガンの短いエッセイが好き(このエッセイの入った本は蓮實と江藤淳の対談本『オールド・ファッション』でも言及されてている)。サガンスーパーカー好きのどうしようもないスピード狂で、薬物依存、アルコール依存に苦しむ後年だったけれど、後二つはビリー・ホリデイも同様で、薬物依存でニューヨーク公演を禁じられた彼女にサガンが会いに行くと、面会を午前四時に指定されたというエピソードがとても良いのだ。

 

 

・8月29日:『セリーヌとジュリーは舟でゆく』

 大学時代の友人で(良い意味で)ちょっと変わった人がいて、僕はジャック・リヴェットを面白いと思えたことがないんだけれど、その人は『セリーヌとジュリー』が良いと言っていたからいつかは見ようとずっと考えていた。とはいえ、なんせ3時間以上の大作だから怖気づいていたのだけれど、ついに見た。

 いや、その友人には悪いけれど、正直全然ハマれない。これって、色々な人が言っているけれど、オシャレに撮ったラノベとかアニメじゃん。僕は『涼宮ハルヒ』も当時見ていたし、『うる星やつらビューティフル・ドリーマー』だって何度も観たけれど、もうそういうのはお腹いっぱいで、今更ハマれず。

  もちろん、ラノベやアニメがヌーヴェル・ヴァーグを真似したわけであって、『セリーヌとジュリー』は一ミリも悪くないのだけれども、やっぱりループものは今更ハマれないなぁ…と。

 

 

・8月31日:『宮本から君へ』

 これも大学時代の友人の一人(卒論はゴダールの映画史という典型的なシネフィル)のお勧めで今更ながら見ることにする。

 池松壮亮ってほんとすごいなあと思うのが、アホみたいなことやっても全然こっちを冷めさせない。『君が君で君だ』でブラジャーしてるのとか、アホらし過ぎるのになんか良いんだよなあ。で、今回も炊飯器から 直接ご飯食べたりしてすごいアホなのにそんなにこっちを冷めさせない。

 で、感想なんだけれども、自分には感想を述べる資格がないと思うことを前置きしておく。自分は喧嘩だとか暴力だとかがもう本当に苦手だから、喧嘩映画はやっぱりハマれない。これ見たら、なんかすごい体調が悪くなりました。とはいえ、それ故に悪い映画とは言えなくて、むしろ最高の映画だと思う。観賞者の体調を悪化させられるくらいには、キツい拷問シーンが多くて、胸糞が本当に悪くなるのだけれども、最後の喧嘩シーンで、素晴らしいグロシーンをモザイクも無しに見せられた時には、最高の映画だ!と思ってしまう。拷問映画史に新たな歴史を刻んでいると思う(個人的には『ソドムの市』の数倍は股間がキュッとなったし、目を背けたくなった…)。

 でもやっぱり体調が良くないので、明日は身体に良い映画を観ることを決意。

 

 

・9月1日:『その女を殺せ』

 これは昔、『キッスで殺せ!』のDVDでも買おうかと思ってネットで調べている時に、予測変換で出てきて知った映画。直感でこれ面白いだろうな…と思っていたら大当たり。マジで面白い。『ヨーロッパ横断特急』を3倍面白くした感じ(ヒッチコックも十分面白いけどね)。やっぱりヌーヴェル・ヴァーグばっかり見ているようじゃダメ。ヌーヴェル・ヴァーグがオシャレ? くたばってくれ、ヌーヴェル・ヴァーグのオシャレ利用は。オシャレ利用するならハリウッドB級映画じゃないと!

(あまりによかったから、詳しい感想は後日)

   

 

 ・9月2日:『フォードvsフェラーリ

 僕が小学生くらいの頃にエンツォフェラーリが出た。レゴブロックがタイアップ商品を出していたのもあったりして、一応僕も人並みにはスーパーカーを知っている。とは言え、全くもってスーパーカー・オタクではないのだけれど、これはめっちゃ面白い。

   冒頭のレース映像のCGが陳腐で期待値は下がる一方だったのだけれど、なんだかんだで見ているうちにドハマり。『ベン・ハー』や『SW ep.1』を思わせるレースシーンも最高だし、マイルズが車を作る際に直面する、芸術か売上かという二つの対立項の狭間での葛藤はとても良かった。もちろん、マイルズは売上なんかよりもレーサーにとっての最高な車を作りたいんだけれども、周囲は売り上げを重視するわけだから、折り合いが悪くなっていく。レースだとかスーパーカーに興味があるかはどうでもよくて、自分が持つ美的感覚と周囲の価値観にズレを感じたことがある人には、ーーこれは何かを作る人、作ったことがある人なら必ず感じたことがあるズレだろうーーとても響く映画だと思う。そういう自分も「それってなんの役に立つの?」と今まで度々(主に年上の男から)投げかけられてきたから、マイルズの葛藤がすごく響いた。

 

 

・9月3日:『ぼくの小さな恋人たち』

 自分はTSUTAYAにない映画を家で見るのがすごい好きだ。自分は好きな映画がTSUTAYAにないとかなり盛り上がる最低な男なのだ。で、多分、ジャン・ユスターシュってTSUTAYAにあるわけないよね…とか思いながら『ぼくの小さな恋人たち』を観たら、渋谷のTSUTAYAにVHSがあると見終わった後に知る。

 まあ、TSUTAYAにあってもユスターシュは最高だからいいんだ。『ママと娼婦』はいかにもヌーヴェル・ヴァーグ的な引用に満ちた台詞、無限に話し続けるジャン=ピエール・レオ、静的な映像を越える饒舌さ、言葉の大洪水が映像を飲み込んで越えてゆく(ル・クレジオ?)って感じで、まあ良いとはいえ、イカニモ感がそこまで好きになれないんだけれど、『ぼくの小さな恋人たち』は最高だ。

 『批評と臨床』に《芸術は子供たちが語っていることを語る》という有名なフレーズがあるけれど、実際は子供が語るように語ることは難しい。子どもの視点というのは大人になるにつれて失うのだから、基本的には不可能だ。それでもそれを成し遂げているなと思わせるものがときおりあって、『大人はわかってくれない』、『ミツバチのささやき』、『エル・スール』はもちろんのこと、『あみこ』(山中瑶子監督もそうだと思う。

 で、この映画もやっぱり子供らしく語るという点で成功していて、それは主人公のダニエルが(僕らの誰もがかつてそう思ったように)大人たちを理不尽なことばかり言う存在だと思っていることを十分に表現しているからではなくて、大人が理不尽なことを言ったり、意地悪なことを言った後にするあの年老いた者特有の諦念が顔に現れる瞬間をダニエルと共に私たちが盗み見てしまうのをカメラが再現しているからなのだ。

 食卓での母親と母親の恋人との会話の中で、母親がダニエルに進学はあきらめるように告げた後、「やりたいことはないの?」とダニエルに尋ねるシーン。「何もない。何も興味がない」とダニエルが答えた後に映る、母親の恋人の顔つきがなんとも言えなくて良い。

 

f:id:baltanien:20200917115202j:image

 

 あるいは、ダニエルが母親の恋人に紹介してもらった職場で夏休みを取ろうとしていることを母親たちが非難するシーン。《母:お前に夏休みがあるの? 勝手に決めていいの?/ダニエル:考えただけだよ。/母:お前はまだ子供なのよ。大人の言う通りにしなさい。》という会話の際に映る大人二人の表情が良い。

f:id:baltanien:20200917115205j:image

 

 ちなみに冒頭で流れる「優しいフランス(Douce France)」の歌手のシャルル・トレネと言えばすごい懐かしくて良い思い出がある。

 僕は大学生の初めの頃よく新宿ゴールデン街をさまよっていた。ゴールデン街というのは若い人がいないわけではないんだけれど、一人でさまよっている若者は珍しいのか、しばしば、年上のおじさんたちにかわいがってもらっていた。その中で今でもよく覚えているのはフレデリック・フォーサイススタンリー・キューブリックを愛するムサビ出身でテレビの仕事をしているイケてるおじさんと、シャンソン好きの中性的でやっぱりカッコいいお兄さんだ。で、このお兄さんが僕がフランスの映画や小説に少々詳しいのを喜んで、この曲聞いてみてよ!と言って教えてくれたのがシャルル・トレネの「我が若かりし頃(Mes jeunes années)」だったのだ。僕はやっぱり(冒頭に書いた通り)当時、音楽には精通していなかったから、シャルル・トレネを知らなくて、その時お兄さんがとっさにメモ紙に書いて渡してくれたのだけれども、その紙は今も栞として僕の本棚のどこかの本の中に眠っている。

 シャルル・トレネが案外セクハラ親父で、アンヌ・ヴィアゼムスキーに小説内でMe too運動のごとく、彼女が受けた被害をバラされているのも知っているけれど、お兄さんとの思い出補正故に、シャルル・トレネはなんだかんだで僕の中で特別なシャンソン歌手の一人なのだ。

 

  僕は人間が好きじゃないくせに、映画も音楽も小説も人から伝えられて手に取ってこそ意味があると思っている。ブック・ガイドだとか、ファッション誌の見ておくべき映画特集だとか、映画史を辿って教える大学の授業だとかはアホでバカでクソの極みだと思っている。そんなの大嫌いだ。文化は人から人へ直接、思い出を伴って繋がるからこそ最高なんだ。

 そういうわけで、やっぱり、恋人が影響を受けたであろうEGO-WRAPPIN'と僕が好きな「映画」というメディアを繋ぐ『真夏の夜のジャズ』を来週こそは観に行きたい。

 

真夏の夜のジャズ [DVD]

真夏の夜のジャズ [DVD]

  • 発売日: 1999/04/23
  • メディア: DVD
 

 

ニューオリンズ(字幕版)

ニューオリンズ(字幕版)

  • メディア: Prime Video
 

 

セリーヌとジュリーは舟でゆく [DVD]

セリーヌとジュリーは舟でゆく [DVD]

  • 発売日: 2007/12/19
  • メディア: DVD
 

 

宮本から君へ

宮本から君へ

  • 発売日: 2020/03/18
  • メディア: Prime Video
 

 

その女を殺せ [DVD]

その女を殺せ [DVD]

  • 発売日: 2013/07/05
  • メディア: DVD
 

 

フォードvsフェラーリ (字幕版)

フォードvsフェラーリ (字幕版)

  • 発売日: 2020/04/01
  • メディア: Prime Video
 

 

ぼくの小さな恋人たち [DVD]

ぼくの小さな恋人たち [DVD]

  • 発売日: 2003/03/01
  • メディア: DVD
 

 

映画狂人なれない日記(8.22-8.27)

・8月22日:『泳ぐひと』

 どこで知ったのかまったく覚えていないけれど、ずっと見ようと思っていた『泳ぐひと』をやっと観た。仕事も家族も何もかも失った禿げかけの中年男性が、自宅までプールを泳ぎ継いで帰るという一見幻想的な物語だが、《大人になれないアメリカ男》を描くというのは『グレート・ギャツビー』と似ている。(このテーマは都甲幸治『偽アメリカ文学の誕生』に詳しい。)ギャツビーは学歴の無さを隠そうとしながら(ハーバードとオクスフォードの地理も分かっていない)、当時兵役でバラバラになった元恋人に固執する。一方でこの映画も、過去のセフレに相手にされなくなってからよりを戻そうとしたり、主人公の男だけは《大人になれないまま》なのだ。

 でも、彼らの《大人になれなさ》の根底にはアメリカの様々な社会システムがあるのは間違いない。そういう意味では、今現代を生きる自分たちも数十年後に各々、自粛や社会的距離etc.で失った青春を取り戻すとか言って、映画の男同様に、客観的に見るとアホらしいことをするのかもしれない。

 恋人がジョン・チーヴァ―の原作を持っていたので読んだが、原作だと特にそのテーマが露わ。

 

 

・8月23日:『たぶん悪魔が

f:id:baltanien:20200825041226j:plain

   立川のIKEAに行く。『(500)日のサマー』みたいなデートを期待するが、大黒埠頭のコンテナ並みに積み上げられた家具の在庫を前に恐れ慄く。自分が何が欲しいのかもう分からなくなる。これが消費社会の神話と構造や……。ボードリヤールは「恍惚」って言葉を使ってたけど、むしろ「目眩」。

  『(500)日のサマー』『ルビー・スパークス』『ジョゼ』辺りに狂わされた2010年代の若者は多いと勝手に断言している。自分と同世代でこの3つを当時に見ている人間は信用できる。

   夕食時に、二人ともレモネードを注文する。もちろんこれは『泳ぐひと』の影響。

 帰宅後、恋人に「ブレッソンひさびさに見ようよ」と言ったら、「悪魔がぼくを…悪魔がぼくを…」とずっと歌ってるので『たぶん悪魔が』を観る。いわゆる68年ものでここまでの閉塞感を出してる映画って他にないんじゃないかと思う。エネルギッシュな五月革命とは対極にある。自分は革命とか文学とかを所詮安直に信じてしまう人間だから、「ああ…やっぱ行き着く先は自殺しか無いのか…」と絶望でちょっと落ち込む。

 前にバイト先で先輩に「最近の日本映画の俳優ってボソボソ喋ってて何言ってるかわからなくてキモいんだよな」ってなんかめっちゃ演説されたけれど、そういう人はブレッソンを見たら(見るわけないけど)どう思うのだろう。ブレッソンなんてほぼずっとボソボソ喋りじゃないか。というか、俺に文句言ってくるお前もボソボソ喋ってんだから、ボソボソの方がリアルなんだよ。と、その時グッと堪えた反論をここで供養。

 後期ブレッソンってボソボソ喋りだし、手とか身体のパーツばっかり映ってて何やってるのか分かりづらいし、しかも会話はナンセンスだし…と、観ても分からなくはないけどよくわかったとは言えない状態にさせられるけれど、これが「異化」なのだろう。

 カルロ・ギンズブルグ『ピノッキオの眼』の異化作用についての章で、プルーストの語り手が『悪霊』の語り手の延長上にある(話の意味を完全に理解できない、生気を欠いた人物)だと指摘されているのだけれど、同様の手法がブレッソンにも指摘できると思う。

 

・8月24日:『喜劇 特出しヒモ天国』、『哀しみのベラドンナ

 予定がなかったので朝から『喜劇 特出しヒモ天国』を観た。先日、森崎東の追悼番組をNHKでやってて、ああこの映画見てないな…と思い出したため。自分はロマンポルノの良き鑑賞者ではないけど、やっぱり権力と戦うポルノ映画は元気が出る。どんなに警察に追い回されようと決してストリップ劇場をやめない登場人物たちは権力と戦っている。(映像とプロパガンダは密接な関係にあるから)映画は権力と結託しては絶対にいけないと思っているけれど、芹明香が護送車の金網越しにこちらを睨み付けるラストショットに権力に屈しないこの映画の全てが詰まっている。『(秘)色情めす市場』を初めて見たとき以来、芹明香のクッソ悪い目つきには惹かれている。

 夜は『哀しみのベラドンナ』を観る。橋本治が『奇子』の解説で手塚のエロさは分からない人には分からないみたいなこと言ってたけれど、これは誰にでも分かるエロ。あらゆるものがオチンチンだから。あらゆるものがオチンチンになるサイケデリックなシーンが『ダンボ』のピンクの象を超えてる。恋人は『三人の騎士』みたいだと言う。

 ドゥルーズの『シネマ』ってめっちゃ雑に要約するなら(あらゆる方面から怒られそうだが)、古典映画は俳優の感情を説明するような身振りを見せるものだったけど(「運動イメージ」)、現代映画はその感情と身振りの繋がりが切断されているよね。で、身振りの代わりに顔とか映すわけ(「感覚イメージ」)って話だと思い込んでいるのだけれど、『ベラドンナ』ってまさに後者の映画じゃないの?って思う。宇野亜喜良テイストのほぼ静止画、顔ドアップの紙芝居映画だし。ベルイマンより手塚の方が例として良くない? って思った矢先、あ、ドゥルーズが《「読む」イメージ》を後者に充てていたことを思い出し、『ベラドンナ』は《「読む」イメージ》ではないな…と自己解決。

 

 

・8月25日:『草迷宮

 成人する前は寺山修司とかやっぱり好きで、この『草迷宮』とかいくつかの絶版になった映画を観るために今は無き神保町のジャニス(マニアックなサブカルDVD・CD専門のレンタル店)の会員になったくらいだし、青森の寺山修司記念館も恐山も行ったし、司修が装丁した全歌集も持っているしというほどだったのだけれど、なんかクサさについていけなくなって最近はフェードアウト。でも、恋人が『草迷宮』のDVDを手に入れてきてくれたから久々の寺山修司。(ちなみにこれの助監督は相米慎二。あと今まで知らなかったんだけれど下敷きって泉鏡花の同名小説だけじゃなくて『瓜の涙』もなんだね)

   やっぱり寺山修司はちょっと分かり易すぎる気がする。一応、夢パートと現実パートが同じ次元に配置されているのだけれど、どうしても精神分析的に(パパ-ママ-僕の三角形的に)ストーリーを読み取ってしまう。そうではない見方が見つけられれば良いのだが、今の自分にはできない。

 ちなみにこの映画YouTubeにアップロードされてるみたいでブチギレ。自分は嫌な奴だから、自分がかつて手に入れるのに苦労した映画が簡単に無料で観れるようにネットに違法アップロードされていたりするとブチギレる。

 

 

・8月26日:『ベルヴィル・ランデブー』、『ジャンヌ・ダルク裁判

 自分はレベル上げとかそういう画面上の単純作業が超苦手だからゲームはこれまでほとんどしてこなかったんだけれど、レイトン教授シリーズだけは昔よくやってた。で、本当はスマホアプリ版も購入したいくらいなんだけれど、スマホの中途半端なサイズの画面が苦手だから、買ってもどうせやらないだろうし、代わりに『ベルヴィル・ランデブー』を観る。シルヴァン・ショメの絵柄ってレイトンっぽいなあと思っているから。3年前、フランスに2週間一人旅行に行ったときに借りた部屋がベルヴィルにあった。中華料理屋が多くて、洋食が苦手な自分にはすごい助けられた思い出。

 ブレッソン祭りとでもいうのか、ブレッソンを久々にまとめて見たくなっているから再び恋人の手に入れてくれた『ジャンヌ・ダルク裁判』も観た。数日前に考えていた断片化と異化作用の話を、冒頭の糾弾されるジャンヌ・ダルクが《真実の一部を述べます》と言うところに見い出す。映画も証言も、真実全体となることは出来ない。

 

 

・8月27日:『白い指の戯れ』、『家庭』

 明日はブレッソンの『スリ』を観よう!とか昨晩話していたのだけれど、「スリ」というキーワードに引っ張られて『白い指の戯れ』を見ることに。

 脚本が神代辰巳なんだけれど、神代作品って実は全然見ていない(『赫い髪の女』と『恋人たちは濡れた』くらい)。なんか神代の描く世界ってちょっと男にとって都合良すぎない?とかどうしても思ってしまうのだ…。

 『白い指の戯れ』もヌーヴェルヴァーグ並みの都内ロケ撮影だから70年代の新宿が見れるというのは良いんだけれど肝心のストーリーがなあ…と。いくら初めての男だったからって、よく分からないスリやってる男の罪を代わりに被ろうとするか? なんか、処女に異様な重きを置いたり、イって《あたし女でよかった》だとか、神代ワールドって寒々しくない?とか言ったらシネマヴェーラとかにいるシネフィルたちにぶっ殺されるんだろうな…。

 で、もう一本はトリュフォー『家庭』。冒頭からゴダールへのオマージュを感じさせるし、《ジャン・ユスターシュにドワネルに男の子が生まれたと伝えてください!》って台詞、テレビから流れる『去年マリエンバートで』の台詞、《絞殺魔》って言葉が何度も繰り返されるし、ジョン・フォードの垂れ幕映すし…とアアー!って言いたくなるシーンがめっちゃ多いんだけれど、結局自分もこういうのに喜んでいるうちはシネフィルなのかと落胆。

 これは「シネフィル」の定義にも依るんだけれど、個人的にはシネフィルと男根主義って言うのは結構根強い関係があると思っていて、『オーバー・ザ・シネマ 映画「超」討議』の中では《シネフィルはアテネフランセの最前列に座ってとにかく光を浴びることを良しとする人》と《反知性主義》に結びつけられているんだけれど、個人的にはむしろ反知性主義とは反対な、映画の周辺情報も集めてそれを知っていてこそ一流とするタイプだと思っている。で、そういう奴の悪いところは、知識でマンスプレイニングする。しまいには《あなたに映画を愛しているとは言わせない》とか言い出すんでしょ(この文言は教育的なものであってマウントを取るためではないはずなのに)。そういうわけで、自分はシネフィルになりたくないと日々思ってしまうのだ。

 というかね、シネフィルはマウント取るんじゃなくてアジらなきゃダメ。でも、文学男子、哲学男子、映画オタクはダサい・モサいからアジれない。君たち運動神経もリズム感もないから踊れないでしょ? アジるにはリズムが必要だから、カッコいいアジってくるシネフィルはみんな音感があるでしょう? シネフィルは知識じゃなくて、リズムとダンスを身につけろ!!

 

f:id:baltanien:20200828152740j:plain

 

f:id:baltanien:20200828152807j:plain

f:id:baltanien:20200828152921j:plain

 

 

 

 

 

泳ぐひと (字幕版)

泳ぐひと (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

  

 

喜劇特出しヒモ天国

喜劇特出しヒモ天国

  • メディア: Prime Video
 

 

哀しみのベラドンナ [DVD]

哀しみのベラドンナ [DVD]

  • 発売日: 2015/07/29
  • メディア: DVD
 

 

草迷宮 [DVD]

草迷宮 [DVD]

  • 発売日: 2003/07/25
  • メディア: DVD
 

 

ベルヴィル・ランデブー [DVD]

ベルヴィル・ランデブー [DVD]

  • 発売日: 2005/08/03
  • メディア: DVD
 

 

白い指の戯れ

白い指の戯れ

  • 発売日: 2017/04/07
  • メディア: Prime Video
 

 

『「エロ事師たち」より人類学入門』感想:距離と権力

 ブルーフィルムものとでも言ったらよいのだろうか。映画内で登場人物たちがブルーフィルムを作成するというメタ的な構造をもった作品は一ジャンルを確立しているように思えるし、『天使のはらわた 赤い教室』などはそのジャンルにおける白眉だろう。(蟹江敬三の、ハードボイルドでありながらアンニュイという刀の両面のような二面性がとても良い)

 今村昌平もそうしたジャンルで撮っているのだが、正直なところ、この映画の適切な評価が自分には分からない。分からないというよりも、決めることが出来ないのだ。それは「距離」をめぐっての問題である。

 物語は野坂昭如の『エロ事師たち』そのままである。エロに関することならなんでも行うことを職業とする主人公のスブやんが、下宿先の未亡人の春と恋仲になる。その後すぐに春が病を患い働けなくなり、春とその二人の連れ子を養う金を工面するため、ブルーフィルムの制作を行うというところから物語は急速に進展していく。

 野坂の描く世界には哀愁と笑いを帯びながら、はみ出し者を描くことで権力社会を批判する力がある。《下半身がポウと明るく浮き出て、マッチ一本燃えつきるまでの御開帳》というペーソスとユーモアを兼ね備えた名文に心打たれる、夜のドヤ街でマッチを売って下半身を見せることで飢えをしのぐ少女を描いた短編「マッチ売りの少女」は良い例だろう。『エロ事師』においても、卑猥であろうと違法であろうと何であれ、生きるためにはやるしかない。とはいえ、暴力団に関わる仕事は行わないのが重要だ。スブやんは常に大きな群れを成す力のある共同体には入らないはみ出し者なのだ。

 ちなみに野坂の『エロ事師』には二パターンが存在する。現在新潮文庫で手に入るものよりも方言色が強い『初稿 エロ事師たち』というバージョンがある(これは国書刊行会野坂昭如コレクションで読める)。

 

 映画は「距離」について常に自覚的でなくてはいけない。「見る」ということは常に距離を伴う運動だからだ。私たちは対象との距離が離れすぎていては対象をしっかりと見ることが出来ないし、近すぎてもぼやけてしまってよく見れない。

 それだけではない。どこから見るのかという視点の選択は権力の問題とも直結する。対象との距離を十分に保って事物を眺める時、私たちは「安全圏の傍観者」でしかない。 十分に近づいた位置に視点を取るならば、私たちは「事件に巻き込まれるかもしれない参加者」になる。コロッセウムの観客席にいる者は剣闘士とも猛獣とも十分な距離が保たれているという意味でもって権力者の側にいることになる。

 映画が社会問題を扱う際にはカメラの位置が問題になる。権力の側に存在するような距離に位置するカメラなどは、まったく社会風刺にも批判にもなり得ない。そうした意味で、森達也の『A』の転び公妨のシーンのハンディカメラは、私たちをその事件に巻き込むように感じさせる位置にあるという点で、自己の中に築き上げられている既存の価値観に揺さぶりをかけるのだ。(至近距離が客観性を失うという批判については後述)

 そうした距離の前提を考慮してみると、この映画の評価は決めかねるのだ。というのも、映画では全編に亘って扉・壁・窓・柵が頻出する。そしてスブやんの住む建物はしばしば川越しに十分な距離を保った地点からズームで捉えられるが、このズームは私たちにどのような効果をもたらすだろうか( 【図1, 2.】)。

f:id:baltanien:20200822185513j:plain

f:id:baltanien:20200822185432j:plain

 【図1, 2.】

たしかに、映画自体が、映画内でスブやんが作るブルーフィルムを再生するというメタ的な構造を持っている為にその反映としての「距離」だと言うこともできよう。あるいは、ヒッチコック『裏窓』、オゾン『危険なプロット』、パゾリーニ『ソドムの市』のような、映画と窃視の関係への自覚を観客に促す「距離」だと言えるかもしれない。とはいえ、殊にパゾリーニにおいて言えるように、どんなにグロテスクなシーンであろうとも映画内で起こる事件はしっかりと映しきるという条件がある場合にのみ、「距離」を持つ映画は権力への加担を免れる。

 だが、この映画においてはどうであろうか。この映画における事件とも言える春が発狂するシーンでも、私たちと春はしっかりと距離が保たれている。柵越しに見える発狂する春(【図3.】)。そしてその後のカットではカメラが春を傍観する者たちの背後に存在することが明かされる(【図4.】)。

 

f:id:baltanien:20200822190736j:plain

 【図3.】

 

f:id:baltanien:20200822190748j:plain

 【図4.】

 

 こうした映像を目前にして、私たちはこの映画にどのような価値判断を下すべきであろうか。この映画はエロスと「狂気」を安全圏から眺めるための展示会でしかないのだろうか。それとも距離=客観性を保つことにより、鑑賞者はどれほどカメラが事件へ近づこうとも、事件の主体の一員とはなれないということを示しているということなのだろうか。この映画は「距離」が抱く両義性をもっている。

 

 

 

「エロ事師たち」より 人類学入門 [DVD]

「エロ事師たち」より 人類学入門 [DVD]

  • 発売日: 2019/08/02
  • メディア: DVD
 

 

A

A

  • 発売日: 2020/05/06
  • メディア: Prime Video
 

 

『五月のミル』感想:ある家族の(滑稽な)会話

f:id:baltanien:20200821022918j:plain

 *

 五月革命を扱った映画は数多くあるが、この映画は少し他とは違っている。カメラが捉えるのはパリでデモやストを行う熱気に溢れた若者たちではなく、パリから離れた南仏で革命を迷惑がるブルジョワジーの家族だ。

 ピコリ演じるミル(邦題では「ミル」だけれども、Pilouをピル―と言うように、ミル―あるいはミルウがより適切だろう)は、同居していた母が亡くなったため、家族を集めて葬儀を行うことにする。母と過ごした屋敷を愛するミルとは正反対に、彼の娘と弟は屋敷を売ることを主張したり、とにかく遺産を増やして分配する話ばかりだ。しかしそんな中、遺書には女中に遺産の四分の一が相続されることが記されていて一同が憤慨したり、葬儀屋が(五月革命に乗っかって)ストを決行して葬儀が延期になったり、延期ならばとピクニックを始めたり、革命派たちにブルジョワジーである自らが殺されることに怖れて隠れまわったりと、家族のドタバタ騒ぎが描かれている。

 

 家族の会話を見るのはとても心が満たされることだ。『失われた時を求めて』も『灯台へ』も『ある家族の会話』も、『世界の迷路』もそこで会話に参加する者たちの裏に潜む、家の悠久な時間の流れを感じられて心地が良い。とはいえ今あげた小説たちはどれも少々上品すぎる気がしなくもない。もう少し肩の力を抜いてそうした会話を楽しみたいという私たちの願望を、この映画はかなえてくれる。映画で流れる軽快なヴァイオリンの音色は十分に上品だし、ブルジョワジーの家族がメインキャストだけれども、『ゲームの規則』や『草の上の昼食』のようなルノワール的な滑稽さが全編を覆っている為に、上品さに付き物な退屈や堅苦しさとは無縁である。お面を被って踊る男も、おっぱいをボロンと見せる女も、野糞をする二人のかわいらしい子供も、集まった者たちが二人ずつ見事に良い雰囲気になっていくのも笑えるが、(映画を観た者には伝わるだろうが)ザリガニも、サクランボも、トマトも、ピクニックで食い散らかされた残飯も、そしてスクリーン内を行ったり来たりしている真っ白な犬と黒猫も、人物以外までもが本当に愉快なのだ。

  プルーストが描く家族も、ウルフが描く家族も、ギンズブルグが描く家族も、ユルスナールが描く家族も良いけれど、少しだけリラックスして楽しみたいときにはこの映画が最適だ。

f:id:baltanien:20200821023129j:plain

f:id:baltanien:20200821023143j:plain


 

五月のミル【HDニューマスター版】 [DVD]

五月のミル【HDニューマスター版】 [DVD]

  • 発売日: 2009/11/28
  • メディア: DVD
 

 

『いとこ同志』感想:クズをするのだって難しい

f:id:baltanien:20200810150145j:plain

 思春期の焦燥感というものは誰だって感じたことがあると思う。僕の場合は17歳のときに『赤頭巾ちゃん気をつけて』を読み、受験勉強なんてバカバカしい!と一人で心の中で反抗し、それから一年間ほどの間、村上春樹にあこがれて原書で小説を読んでみたい!と思って続けた英語以外の受験勉強は、ほぼ一切勉強せずに過ごした。

 もちろんその結果は如実に表れて、影響を受けた小説のごとく学生運動で受験が中止になったわけでもないのに、行く大学はひとつもなく、19歳を浪人生として過ごすことになった。

  とはいえ『赤頭巾ちゃん』が僕のやる気を奪い取ったのではない。それくらいの年頃にはなんとなく無気力というのがよくあることだ。やる気が完全に削がれていたと言うと嘘になる。無気力というよりはソワソワしている日々だった。当時の僕の周囲には、シコシコ勉強をするのを妨げる誘惑がたくさんあった。しかも、それはほとんどが人だったのだ。西暦が変わってもう既に十年は経っているというにも関わらず、襟足を伸ばして腰パンの輩が授業を妨害し、男子トイレの個室にコンドームが落ちていたことで学年集会が開かれ、校庭には卒業生がバイクで描くミステリーサークルの生成を日々窓から眺めて過ごすような中学校から、(海沿いではなかったとはいえ)横浜市の高校へ進んだ自分には、どいつもこいつもシティーボーイ、シティーガールに見えたのだ。

 クロード・シャブロルの『いとこ同志』は、あのときの自分の愚かさを思い出させてくれる。

 

f:id:baltanien:20200810150208j:plain

 *

 いとこ『同志』であって、いとこ『同士』ではない。二人のいとこが恋に落ちるのではなくて、法学部受験という同じ目標を持った二人に、一人の女が加わって恋愛ゲームが始まる。結局、田舎から上京してきたシャルルは、パリっ子で女たらしのクズなポールに恋心を抱いていたフローランスを奪われ、受験は失敗というさんざんな目に遭うが、ポールを見ていて思うのは、クズをやるのも才能だよな……と。

 やっぱりクズはパラメタ配分がうまい。寝た女に手切れ金渡して中絶させるし、従兄弟の恋心を知っておきながら寝取るし、受験はカンニングで済ますし、マジで最低な男だけれど、全部なに一つの問題を残さずに済ませてしまうのは才能だろう。

 こういう才能をもったクズと付き合うためには、自分も同程度のクズであるか、自分はクズにはなれないと自覚するしか道はないのだろう。結局、シャルルのように、パーティーの行われている部屋の隣で、気もそぞろに勉強するくらいなら、いっそその日は一緒に遊んだ方がいい。

 僕の周りにも天才的なクズが何人かいる。高校の同級生だったMさんは、既に高校生とは思えぬアンニュイな雰囲気をまとって、まだ当時は人のたくさんいたmixiで社会人男性を釣りまくってた。のちに、何股もかけてるのが色々バレて、ヤバくなるかと思いきや、うまくすり抜け皆と仲良く健在。今も変わらず、会えば、東カレのアプリがどうだとか一歩先を教えてくれる。

 小学生の頃からの友人のSくんも手を出した女は数知れず、更には親からもらった学費を競馬につぎ込み大赤字、しかし仕方がなく飯代に僕が貸した二千円を翌日にはパチンコで二万円に変えて生き延びたりする。こうしたバランス感覚が優れたクズたちと遊んでいると、しばしば自分も同類なんだと思いがちだが、自分は結局ガリ勉野郎なんだと自覚しておかないと痛い目に合う。

 

 *

  こうしてこの映画を観ていて痛感したのが、大学時代の先生の《賢者タイムが『バカ』を活かす》という言葉だ。パーティーだってしたらいい。きっとたくさん遊んだ方がいい。でも、お勉強は一人でしなきゃだめなのだ。

 

シャブロルの別の作品の(真面目な)感想↓

baltanien.hatenablog.jp

 

 

いとこ同志 クロード・シャブロル Blu-ray
 

 

 

赤頭巾ちゃん気をつけて

赤頭巾ちゃん気をつけて

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video