映画狂人にはなれない

お引っ越し

 

 もうすぐ引っ越しの日がやってくる。約四年間住み続けた部屋から大学院のある近くに引っ越すことになる。僕が持っている荷物と言えば、それはほとんどが書籍だから(というか、書籍以外には大したものを持っていないのだが)引っ越しの準備というのは必然的に本をひたすら段ボール箱に詰める作業になる。もう既に十五箱は詰めたと思うけれど、全然終わりが見えず困り果てている。隣室との境界線の役目を果たしてくれている壁に沿って、この段ボール箱をひたすら積み上げていくと、『ムーン・パレス』の一節を思い出した。

 

結果的には、本を入れた箱はそのままの状態で大いに役立ってくれた。一一二丁目のアパートには家具がついていなかったので、欲しくもないし買う余裕もない物に無駄な金を使うよりはと、僕はそれらの箱を材料に「虚構の家具」を作り上げた。〔…〕十六箱のセットがマットレスの台となり、十二箱のセットはテーブルに、七組の数箱がそれぞれ椅子に、二箱がないとテーブルとなった。〔…〕友人たちはそれを見て怪訝な顔をしたが、もうそのころには彼らも、僕の奇行に慣れっこになっていた。考えてもみたまえ、御機嫌な話じゃないか、と僕は彼らに講釈した。ベッドにもぐり込めば、君の夢は十九世紀アメリカ文学の上で生まれるんだぜ。食卓につけば、食べ物の下にはルネッサンスがまるごと隠れてる。まったくこたえられないよ、と。 

 

 これは、主人公がビクター伯父さんからお金も何も渡せるものはないからと、伯父さんの蔵書を半ば強引に押しつけられた直後のシーンだ。ベッドにも食卓にも文学が侵食してゆくさまを表したこのシーンを僕はとても気に入っている。僕の十代後半からも常に文学に浸食されていた。人よりも遅い精通が来た時には、『仮面の告白』の岩礁と聖セバスティアンの殉教のシーンを確認し、村上春樹の小説を読み尽くすと、気づけば「蛍」に出てくるまんまの部屋で大学生活を送っていた。その部屋で『百年の孤独』を読んで孤独について考えて、『失われた時を求めて』を読んで理想と現実の直視について考えた。とんでもない恋愛を『マノン・レスコー』で復習したりもした。

 

 『ムーン・パレス』でオースターが幾度も強調したように、小説を読み出した僕たちは、いつしか現実と物語という内と外を分けることはできなくなっていった。身の回りに起きることすべてを、文学を通して見つめ、比較参照して暮らすようになったのだ。

 

ムーン・パレス (新潮文庫)

ムーン・パレス (新潮文庫)

 

100パーセントの女の子とゼウシクス

 

 昔、友達に「お前ってさ、4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』みたいだよな」と言われたことがある。この長々しい100パーセントの女の子って言うのは何かというと、村上春樹の初期短編小説のタイトルだ。

 ストーリーはごく単純で、主人公の30代の男が裏原宿で自分の考える理想的な、完璧な、100パーセントの女性とすれちがったけれど声を掛けられなかったというだけのウディ・アレン的な物語だ。(実際、「ウディ・アレンの映画」はこの短編に登場するのだが……)その中で主人公がもし100パーセントの女の子に声を掛けられるとしたら聞かせようとする物語をふまえて、きっと友人は僕とこの短編を重ねたのだと思う。

 その主人公が聞かせようとした物語には、この世の中のどこかには100パーセント自分にぴったりの相手がいるに違いないと固く信じている男女が出てきて、二人が奇跡的に出会うことに成功する。しかし、物語は急遽次のように進展する。

 

〔…〕彼らは100パーセント相手を求め、100パーセント相手から求められている。100パーセント相手を求め、100パーセント相手から求められているということは、なんと素晴らしいことなのだろう。それはもう宇宙的な奇跡なのだ。

 しかし二人の心をわずかな、ほんのわずかな疑念が横切る。こんなに簡単に夢が実現してしまってよいのだろうか、と。

 会話がふと途切れた時、少年がこう言う。

「ねえ、もう一度だけ試してみよう。もし僕たち二人が本当に100パーセントの恋人同士だったとしたら、いつか必ずどこかでまためぐり会えるに違いない。〔…〕

 

 ロメールの映画(『モード家の一夜』や『緑の光線』)の登場人物たちのようでもあるし、三島由紀夫の「雨のなかの噴水」を連想させもするこの主人公の男は、偶然性や運命というものを夢想しているがゆえに、わざわざこんなことを言い出したのかもしれない。たしかに僕は、偶然だとか運命だとかを信仰しているし、自らの遭遇している出来事の運命を信じたいがために、他人に揺さぶりをかけるような卑怯さがにじみ出ているときもあると思う。

 けれど、彼に伝えておきたいのは、僕はこの短編の主人公とは違って100パーセントの女の子の存在をそこまで信じてはないということだ。むしろ僕にとって問題なのは、プリニウスの『博物誌』(第35巻)で記されている古代ギリシアの画家ゼウシクスのように、想像上で100パーセントの女の子をつくり出すために、複数の人物を重ね合わせる可能性がしばしばあるということだ。

 

〔…〕(ゼウシクスは)公費でラキニアのヘラの神殿に納める絵をこれから描こうというとき、土地の処女たちを裸身で練り歩かせ、その一人一人のもっとも美しい点をその絵のなかに再現するために五人を選んだ。

 

 僕の脳内には、これまでに出会ったたくさんの人たちの各々の魅力的な部分が溶け合って、鋳直された人物が住まわっているけれど、靄がかかっていてはっきりとその姿を見ることが出来ずにいる。もし僕にとっての100パーセントの女の子というものが存在するとしたら、きっとそれは、脳内で靄のベール越しに微笑んでくる彼女のことなのだ。

 

 

カンガルー日和 (講談社文庫)

カンガルー日和 (講談社文庫)

 

 

 

なまぬるさ

 

 17歳のとき、女の露出魔に会った。それは夏の期末考査が始まろうとしている日のことで、朝から降っていた雨が止み、陽がコンクリートの街路に散布した雨水を蒸発させようとするせいで、ずいぶんジメジメとした最悪な気候の日のことだった。

 通っていた高校の授業は数学の進度が少し早かったから、試験前になると問題集の分からないところをクラスの友人たちと教え合ったりする習慣があった。公立の高校では放課後にエアコンが作動するなんてことは決してないから、少しでも涼しい場所で勉強をしたかった僕たちは、いつも学校から歩いて五分もかからない公民館と図書館が一体となったような施設の一角で、試験前の放課後を過ごしていた。ここだって公共施設だからそんなに涼しいとは言えなかったけれど、少なくともエアコンも付いていない学校よりはマシだった。

 

 建物に入ると、外気との温度差に身震いし、すぐにトイレに行きたくなった。三人で四人掛けテーブルの一つに荷物を置くと、僕はすぐには座らずにトイレに向かった。

 入館直後は寒さを感じた室内も、慣れると微妙に生ぬるくて気持ちが悪かった。館内には灰色の絨毯が敷かれているせいで、足裏に伝わってくる絶妙な柔らかさもまた気持ち悪さに拍車をかけていた。男子トイレと女子トイレの分岐点に辿り着き、水色のタイルで壁が張り尽くされている方へ進もうとしたときに、水色とピンクのスペースを分ける柱のちょうど前に置かれた観葉植物の後ろに何かの気配を感じた。観葉植物の背丈とちょうど同じくらいの背をした女がいた。母親よりも年を取っているように見える、くたびれたグレーのTシャツを着た女だった。Tシャツの上でミッキーマウスが笑っていた。女と目が合ったと思ったとき、僕は目を逸らそうとしたけれど、女の混じりけのない純粋な視線が僕を捉えて離してくれなかった。

 気付くと膀胱の中にあったはずの尿意は消えていて、僕はトイレに入らずに引き返した。

 

 高校二年の前期に既にベクトルまで終えてしまった授業を理解するために、授業中は寝てばっかりの僕ら三人は必死になって勉強しなきゃいけないはずだったのに、そんな三人が集まったところでそれぞれに解決できる問題は数題しかなくて、問題集の解けない数式の羅列にみんな飽き飽きしていた。二人が僕たちのいる建物の横にあるフジスーパーに飲み物を買いに行くと言い出して、僕はトイレに行く道中で出会った女のことを思い出して少し迷ったけれど、太陽が窓ガラスを覆うブラインドもすら突き抜けそうなほどに照り付けているのを目にすると、「僕は待ってるよ」と二人に伝えていた。

 

 二人が通路から見えなくなったあと、僕はここに来たときから一ページも進んでいない開きっぱなしの問題集に目を落とした。意味しているものが理解できない文字列を見つめていると耳が冴えて、周囲の物音がよく聞きわけられようになってきた。どうせ問題は解けないから、近くの席に座っているママ友グループの会話を盗み聞きしたり、別の席にいる老婆たちの世間話に耳を傾けたりした。まるで耳だけが縦横無尽に室内を動き回っているように各テーブルの声を自らの意思で拾うことが出来たから、面白くなって次々と盗み聞きを繰り返した。

 けれども、そんな遊びも長続きしなかった。手元が暗くなったと思うと、女は僕の横の席に腰を下ろして、無言で僕の顔を覗き込んでいた。怖いというよりも今ここで二人が帰ってきたら困るという気がした。なんと説明すればいいのか分からないし、変態に目を付けられたと茶化されるのも嫌だった。僕が相変わらず視線を逸らせずにいると、女は自らの半袖のくたびれたTシャツに手を掛けて、その手を首元まで持ち上げた。女の年老いてしぼんでいるのに綺麗な乳房が露わになった。この女の乳房には穢れの無い綺麗さがあった。乳首は彼女と同じくらいの子育てを終えた大抵の女とは違い、黒ずんだり、伸び切ったりしてもいなかった。それだけすると女が去って、入れ替わりに二人が戻ってきた。

 

 それから僕はこの出来事をずっと思い出さないようにしていた。それは僕がこの出来事を心の底から不快だと思ったからではなくて、どんな風に処理したらよいのか分からずにいたからだった。だから、あの日、帰ってきた二人には当然のこと、ほかの誰にもこの出来事は伝えずに来た。

 けれどもついに、この出来事を思い出す日が来た。マルグリット・デュラスの「ボア」という短編を読んだときだ。「ボア」にはバベルさんという、主人公の少女に自らの下着姿を執拗に見せつけてくる女が出てくる。僕は「ボア」の次の一節を読んだとき、自らの体験との決着をつけた。

 

私は確信した。バベルさんが老け込んだのはもっぱらそのことのため、つまり乳を飲む子供のためにも、体をあばき出してくれる男のためにもいちども体を役立てなかったためなのだと。それは孤独の腐食作用で、男に体をあばき出してもらえばたぶん避けられたのだ。

 

 僕はそれから、大学の卒業論文をデュラスで書き、大学院での研究対象もデュラスにした。

 

 

フランス短篇傑作選 (岩波文庫)

フランス短篇傑作選 (岩波文庫)

  • 発売日: 1991/01/16
  • メディア: 文庫
 

 

また今年も猪鍋を食べ忘れた

 クジラとか鹿とか羊とかワニとかちょっと珍しい肉を食べるのが好きだから、近所の古臭い居酒屋の入り口に《猪鍋あります(二人前2000円から)》という貼り紙を見てからずっと行こうと思っていたのに、今年もまた行き忘れた。「今年もまた」というのは、この貼り紙を初めて見たのはこの街に越してきた四年も前のことで、それからずっと、毎年冬になる度に、「今年こそは猪鍋を食べるぞ」と意気込みながら毎年毎年忘れて春が来る。

 こんなことを思い出したのは、先日小山田浩子「いたちなく」を読んでいたら、シシ鍋が出てきたからだ。

 

洋子さんは布巾で押さえて土鍋の蓋を取った。甘い味噌の匂いが湯気とともに立ち昇った。大根やニンジンが煮込まれているのが見えた。洋子さんは大きな菜箸を持って肉片を一枚ずつ持ち上げ、薄い茶色の汁に入れた。我々は洋子さんが作った冷たい野菜料理を食べながら酒を飲み(僕はお茶だったが)、二人のなれそめや斉木君と僕の学生時代の話などをした。

 「肉ももうよさそうですよ」洋子さんの声で我々は箸を伸ばした。火が入ったシシ肉は、脂の層がちりちりと縮み、煮えばなに入れたまだ硬いセリやネギと食べると大変おいしかった。

 

 彼女の小説はよくカフカ的だと言われたりもするけれど、たしかに、フィリップ・フォレストが 『テクストと迷宮』(未邦訳)の中でカフカ的なテクストの特徴としてあげたように、失態、彷徨、危機、啓示という四つの要素で小説が構成されているようにも見える。この『工場』という小説も、出てくる仕事が不要な書類をひたすら一日中シュレッダーにかけるというものだったり、意味の不明瞭な文章が並ぶ書類をひたすら校閲するものだったり、目的が不明である点でカフカ的だと言う人がいるだろう。くわえて、上司からのその仕事の指示は唐突かつ断定調であるために、『工場』で労働をする登場人物たちは、『城』のKと重ねられると言う人もいるだろう。

 

 だがそれ以上に、彼女の小説世界がカフカ的なのは、世界が「工場」のように描かれるからなのかもしれない。こんなことを考えつくのも、デビュー作となった小説のタイトルが、まさに『工場』だからなのかもしれないが。

 彼女の小説に登場する人物たちは、よく食べ、排泄し、子どもを産む(あるいは子供を産むということについて考察する)。人物たちもまた、『工場』に置かれたシュレッターのごとく、摂取と排出を繰り返す機械のように描かれる。彼女の小説を読んでいると、私たちは、世界という巨大な工場を成り立たせるために摂取と排出を繰り返す機械として存在しているのではないかと思えてくる。まるでカフカの「流刑地にて」に登場する機械のように、小山田の世界では、身体と機械は不可分であり、身体もまた機械なのだ。

 

 実は、冒頭で引用した箇所の続きで、主人公の妻は《ずいぶん甘いんですね》と無配慮というか、率直に言えば無礼な言葉を、シシ鍋を作ってくれた洋子さんに投げかける。さらには、食事中にいたちを溺死させた思い出話を語ってみせたりする。彼女の小説に登場する人物はかなりナチュラルに失礼な言葉を発するのだ。

 だがそれもまた、小山田の世界における機械=ロボットとしての人間は、相手の感情など関係なしに言葉を排出するものであり、この自動的な摂取と排出の動作が、人々の発することばにまで及んでいるとも見ることが出来る。

 

 ところで、最後に付け加えておきたいのが、彼女の小説の中で、斉木君という人物が登場する物語に出てくる食べ物は大抵の場合ものすごくまずそうだ。「いたちなく」に出てくる甘すぎるシシ鍋。「ディスカス忌」で日本酒のつまみとして出る、熱帯魚の餌用の乾燥エビ(斉木君は平気で人に食べさせようとする)と醤油と砂糖とごま油の味がする炒り卵(酒のつまみなのに味が騒々しい)。

だが、彼女の小説においては、食事はまずそうであることが魅力なのだ。

 とりわけ、「ゆきの宿」で斉木家の隣人の老婆がくれるいかにもモソモソしてそうで、喉の通りが悪そうなおからの詰まったおいなりさんが最高だ(小説中では「アズマメシ」と呼ばれている)。ラストシーンに象徴されるように、この老婆はまったく気味が悪いものだから、そんな人が握ったいなりは全く魅力的に見えてこない。けれども一読すれば、まずそうないなりのことを忘れられない。

    美味いものなんてどうせすぐに忘れてしまうものである。口に合わなかったものこそよく覚えているものだ。僕も、変わった肉が好きとはいえ、トド肉だけは口に合わなかった。トド肉を口に入れたときの自転車の車輪のゴムチューブを噛んでいるような食感と、つばを飲み込んでも飲み込んでも消え去らない土のような臭さ。もう一度食べたいとは全く思わないけれど、ときおり思い出してみたくなる。

 

 

  「いたちなく」「ふゆの宿」は『穴』に、と「ディスカス忌」は『工場』に収録。

 

穴 (新潮文庫)

穴 (新潮文庫)

 

 

工場 (新潮文庫)

工場 (新潮文庫)

 

 

花粉と喫煙

 

 春が近づいてくると困るのはもちろん花粉症で、それは鼻がムズムズするからだとか、目がショボショボするからだとか一般的な「症例」のせいでもあるのだけれど、それ以上に鼻水が止まらなくて煙草が吸えないというのが一番困ることなのだ。

 ただでさえ鼻腔から目元にかけてみっちりと水を含んだ脱脂綿でも詰められているかのような不快感で苛立っているというのに、その苛立ちをなだめる煙草を咥えることもできないとなると、もうそりゃ早く春なんて終わってしまえとしか思えない。

 もはやストレス解消や気分転換の道具として利用しているだけなのだから、別に煙草の美味しさだとか風味なんて日頃気にすることはほとんどないにもかかわらず、いざ、吸えないとなると、煙草を吸いたい、それもできることなら最上の味わいのものを吸いたいと思うようになるものなのだ。

 最上の味わいの煙草といえば、石川淳「鷹」だ。この短編で描かれる煙草は、犬すら欲しがる煙草である。

 

国助は通りがかりに喫茶店にはいって、買ったばかりのピースに火をつけて一口すった。何の変哲もなく、ピースはピースの味であった。しかし、そのとき意外なことがおこった。膝の上に乗せておいた子犬が突然くんくんと鼻を鳴らして、目をほそめて、国助の口から吐くけむりの行方を伸びあがって追おうとするような、あきらかにたのしげな姿勢を示した。おさえつける手の下に、子犬は鞠のように跳ねはじめた。

 

    万人の幸福のために、より良い煙草を作りたいと煙草の研究をした国助は、専売公社を「『万人のため』は『専売』に反する」という不条理な理由で職場をクビになる。その後に飲み屋で声を掛けられて雇われた煙草工場は、明らかにピースの模造品を作っている違法な工場で、更に、彼の仕事は煙草のカートンが詰まった紙袋を運ぶだけだ。何故運ぶのか、この運んでいる謎のピースもどきの煙草は何なのかは決して分からない。

 カフカロブ=グリエや阿部公房と比されうるこの幻想小説の内に、現実と幻想の境目を見いだす気もないし、石川淳を初めて読む者なら、気の抜けたため息を漏らすであろうラストもどうでもいい(二回目からはまたかよ…という失望のため息に変わるのだが)。ただこの小説に出てくる犬も欲する煙草というオブジェに魅せられる。

 国助のように通りがかりに入った喫茶店で煙草が吸えるなどということは、もはやほとんどありえないご時世だが、この間国分寺駅近辺を歩いていたときに、まさに通りがかりに寄った《ジョルジュサンク》は喫煙可能だった。赤橙色のほのかな灯りだけが光源の、薄暗い室内で紫煙をくゆらす老若男女たちが眼に入る。とりわけ、中央のドーナツ型の円卓に腰を下ろしてゆっくりと煙を口から吐き出す老婆の姿は、この道云十年なのかは知らないが、一本の紙巻を扱う動作全てが完成されていて素晴らしい。

 他方で、うまく吸えぬ煙草をふかす二十歳ぐらいの男二人が耳をつんざくような大声でスマホゲームの話をしているのだから、せっかく老婆の芸術的な手さばきが眼福だったというのに、ついつい苛々してしまう。

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 近頃、若者の恋愛やゲームや就活の話が喫茶店の近くの席から聞こえてくると、もう帰りたいと思ってしまう。その手の会話というのは、全てあらかじめ決まった通り道をなぞって進むだけなのだ。どうせ自室にいても読書も進まないからと、せっかく喫茶店まで来たというのにもかかわらず、隣席の世俗的なおしゃべりに気が散って仕方がないというのは、自らがバルトやプルーストのように繊細だからなのか、それとも単に偏屈で神経質な引きこもりだからなのか。もちろん、後者に違いないのだが、そもそも、春だから、花粉の季節だから、自分は煙草を吸えないというのに周りが吸っているから、苛々させられているだけなのだと信じたい季節が来ているのを実感する。


鷹 (講談社文芸文庫)

鷹 (講談社文芸文庫)