映画狂人にはなれない

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自意識の墓場

『去年マリエンバートで』感想:廃墟で思いを馳せる

 早稲田松竹で『去年マリエンバートで』と『インディア・ソング』がかかっていると聞き、ずいぶんと教育的で、真面目なラインナップだと思ったのだが、あそこはそもそも早稲田大学文学部の拡張キャンパスみたいなものだから、教育的かつ真面目でよいのだろう。大人なシネフィルどもは渋谷のシネマヴェーラとかアテネフランセとかに行くもので松竹はお勉強がお好きな学生のための安全地帯なのだ。

 自分も出身だから言うのだが、早大生というのはホントにダサくてイタくてどうしようもない。大学に入学して中上健次を読んでゴダールを見て日本の商業小説・映画をディスり(大抵は股辺直巳のパクリ言説を糞のごとく垂れ流しである)、何の危険もないロータリーで安酒を飲んでゲロを吐き中島らもぶってイキり、今更ながらのニューアカ傾倒をしつつも、ツイッターではアニメアイコンに設定して、アニメと現代思想をいちご大福的サンドイッチできる自分を日々誇示している。(「いちご大福」とは千葉雅也が命名していたものである)僕は《11歳でドストエフスキー、15歳でエヴァンゲリオン》の《最悪のコース》にかつて溺れた人間だから、大学に入ってそういうことを始めたお前らとは違うのだ!  俺は大学に入ったらワニ飼ってて夜は体売ってるOLと暮らして新人賞もらって死ぬつもりだったのに!!と啖呵を切ってる自分も結局ダサくて全くいやになるが。

 と、関係のない早大生ディスりをして悪態をついてしまったが、ここは早稲田松竹らしく極めて真面目な感想を残しておこう。

 

 

 ドゥルーズも『シネマ』の中で引用しているアンドレ・S・ラバルトゴダール作品の俳優でもある)によれば、レネとロブ=グリエの映画は「ロールシャッハテスト」のようなものなのだという。*1

 映画というものには「過去」を表す指標はないため――言語の時制のようなものがないから――夢や記憶といった曖昧な映像を残すのは本来は不可能だ。何らかの技術を用いなければ、過去・現在・未来は並置され、時系列というものが生まれない。この問題の解決策の一例はムルナウサンライズ』における多重露光が挙げられるが(【図0.】)、むしろこの問題を逆手に取って作り上げられたのがレネたちの映画である。

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【図0.】

 

 《日常生活のうちのように、出来事の意味は仮定でしかなく、イメージが言語であるとしたら、それは意味作用なき言語である。》*2 とラバルトが言うように、ハリウッド映画にあるような世界に起こる出来事の因果や意味(都合の良いストーリー性)というのは僕らが勝手に考えだしただけであり、同様にしてイメージにもそのイメージの意味というものは決定不可能であるということは、ポストモダン思想の隆盛以後に生きる僕らにとっては自明だろう。あるいはクレショフ効果を思い浮かべればいい。そういう意味で、レネたちの映画は出来事を加工せずに生のまま提示しようとしたイタリアネオレアリズモ映画の後継であるのだという。われわれは、女と男が実際に一年前に会っているのかの真偽を知ることは不可能であるし、それぞれが《能動的な鑑賞者として》*3この連続するイメージの意味=ストーリーを決めればよいだけである。これはゴダールの映画においても同様で、『気狂いピエロ』のラストのクローズアップから何か決定的な一つの意味を読み取るのは不可能であり、僕らは個人個人が意味を決めておくことしかできない。

 実際、僕らを《能動的な鑑賞者》と仕立て上げるために、『去年マリエンバートで』では数々の技術が用いられていて、時間軸の掴めないようなモンタージュはその一例である。このモンタージュを見抜くのに一番簡単なのは、ヒロインのドレスの種類を知っておくことであろう。

 例えば、【図1.】に見られるように、バルコニーで話す女のドレスが柄付きのものから不意に柄なしのものへと変わったり、ヒロインのドレスは次々に変化する。

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【図1.】

 これからこの映画を観る者が、レネとロブ=グリエの意図的な「繋ぎ間違い」に気付きやすくするために、以下に僕が発見したドレスの種類の一覧を掲載しておこう。(【図2.】)

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【図2.】

 だが、もちろん二人の「繋ぎ間違い(モンタージュ)」は適当になされているわけではない。そこにはもちろんルールが存在し、例えば〈類似〉である。【図3.】で見られるように①:バーでの映像が突如②:ベッドルームでの映像(女は背後のボトルを落とす)へ繋がれ、③:バーの床に散らばる割れたグラス、④:それを片付ける男の映像という一連のシーンは、ガラスの落下という〈類似〉の行為によって結ばれている。〈同一性〉は持たないが〈類似〉した行動の連結により、複数のイメージが繋がるように編集されている。*4

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【図3.】

 

 こうしたモンタージュロブ=グリエが作成するに至った源泉として『モレルの発明』があることは今ではよく知られた事実であるし、そこにボルヘス「ハーバート・クェインの作品の検討」を付け足してもいいだろう。これはボルヘスが架空の小説家について記した追悼文の形をとったフィクションなのだが、そこで語られる架空の小説家の作品は極めて『マリエンバート』的である。というのも、その架空の小説『エイプリル・マーチ』は13章からなる小説であり、1章で会話劇がなされ、2~4章では前日の様子としてありえた出来事が記される。そして、5~7、8~10、11~13章ではそれぞれ2,3,4章の前日としてありえた出来事が記されるという形式をとっているのだ。つまり、樹形図的に出来事の可能性が並列的に記された作品だという。

 これを読んでしまうと映画も、一年前の情事を起点として、各シークエンスを計13の出来事に分類したくなるのだが、今のところ自分はこれをうまくは出来ていない。

 だがここでむしろ『モレルの発明』の源泉であるウェルズ『モロー博士の島』を思い出すべきであるかもしれない。『モロー』、『モレル』、『マリエンバート』、更には『インディア・ソング』と『世界の全ての記憶』のこれら全てに共通するのはdesertedな建物・土地である。

 レネの短編『世界の全ての記憶』はフランスの国立図書館という実在の建物についての映像であるにも関わらず、ボルヘスの図書館的な廃墟めいたものを前にした感情を抱かずにはいられないし、これは『インディア・ソング』や『マリエンバート』の洋館を見る際にも同じであろう。そして、レネ、ロブ=グリエ、デュラスが差し出してくる廃墟のごとき建物は、モンタージュの技術とは別の力で我々を《能動的な鑑賞者》にとしてくれるだろう。

 ガストン・バシュラールは言っていた。

もしも記憶の奥底、記憶の限界、おそらく記憶のかなたの太古の領域に耳を傾けて聞けば、その声は誰にでも聞き取れる声となる。我々が人に伝えることができるのは秘密に至る方向だけであり、決して秘密を客観的に語ることは出来ない。*5

 個人的体験の核心は秘密であり、秘密はそれ自体を他者へ伝えることができないという。だから、バシュラールは続く箇所で、秘密が結び付けられた場である家を描写しようとも、私物であれば他人へ秘密を伝えるのに使用できないことを語っている。*6だとしても、建物自体に記憶を繋ぎ留めたり、想起させる機能があることは確かであり、女がマリエンバートで、インドシナで、体験した出来事の秘密を鑑賞者自らが重なって発見するには、廃墟というもはや今や誰の物でもない建物を用いるのはたしかに適切かもしれない。誰の物でもないがノスタルジーを感じられる場。それこそがdesartedな建物、廃墟である。こうした廃墟のテーマはデュラスにおいても明白であり、『インディア・ソング』の続編『ヴェネツィア時代の彼女の名前』は前者の舞台であった館が廃墟となった後の姿がスクリーンに映し出される。

 私たちがこうした映画を前にしたとき登場人物のように思わず微睡んでしまうのは、モンタージュの効果のみならず、美しき廃墟の効果であるのも確かなのだろう。早稲田松竹の今回の特集には「廃墟で思いを馳せる」という副題を付けたくなる。

 

 

 

 

 

 

*1:André S. Labarthe, «Marienbad année zéro» dans Cahiers du cinéma n°123 Septembre 1961.

*2:Ibid.

*3:Ibid.

*4:こうしたイメージの〈類似〉とモンタージュの関係についての優れた分析として平倉圭ゴダール的方法』は大いに参考となる。

*5:ガストン・バシュラール『空間の詩学』, 思潮社,ちくま学芸文庫, 2002年, 59頁.

*6:Ibid.