映画狂人にはなれない

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自意識の墓場

『さらば夏の光』感想:なぜ、ロケ撮影か

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 私の大学の卒業論文マルグリット・デュラスだった。私が文学部出身なのを知って「卒論は何だったのですか」と聞いてくれる人がたまにいたりして、その時にこの作家の名前を出すことがあるのだが、思ったよりも伝わらなくてびっくりする。とりわけ、こうした質問をしてくれるのは大抵が中年以上の人なのもあって、『ラマン』の映画化を通じててっきりデュラスは人口に膾炙した作家だと思っていたからだ。

 そんな『ラマン』すら忘れかけられているデュラスには、『二十四時間の情事』という言わずもがなな名作があるのだが、この映画の衝撃はなかなか大きいものだと思う。つまり、かっこいいな、まねしたいなと思わせるようなカットやセリフが多くある映画なのだ。そして、1968年の日本映画『さらば夏の光』(吉田喜重監督)はまさに『二十四時間の情事』の影響を受けている。一組の男女。すれ違う二人の不確かな記憶。二人の接点となる長崎という被爆地。不倫。ストーリー、セリフ共にデュラスそのまんまである。

 この映画がもちろんデュラスのパロディであることは誰の眼にも明白であるが、個人的にはヌーヴェルヴァーグ全般の影響が色濃い映画なのではないかと思う。というのも、見ていると《ああここは『気狂いピエロ』だな。ここは『去年マリエンバートで』だな》としばしば言いたくなる。だがこの映画とヌーヴェルヴァーグの影響関係だとか、デュラス=吉田の愛と不在や表象不可能性のテーマについてここで書くつもりはなくて、むしろこの映画を見て思うのは全く別のことなのだ。

 

 実はこの映画は日本航空とのタイアップ作品で、日本航空の協力によってオールロケで撮られている。海外渡航が自由化されたのは64年だから、その4年後のこの映画はもちろん国民への海外旅行の宣伝の効果も狙っていただろう。

 ちなみに『二十四時間の情事』も広島でのロケ撮影であり、その時のことについては写真家の港千尋が記した『愛の小さな歴史』に詳しい。(これは、エマニュエル・リヴァが撮影での来日時に撮ったとされる写真を始点として、まるで堀江敏幸の書物のようなエッセイ風のルポルタージュが綴られたとても美しい本だ)

  とはいえ『さらば夏の光』と『二十四時間の情事』には大きな相違がある。ロケをめぐる「本当らしさ」の問題だ。デュラスの描く土地がしばしば実際の地理的な特徴と矛盾していることはよく言及されることであり(こうした作中の土地は「デュラジア」と呼ばれたりもする)、『二十四時間の情事』においても広島が太平洋に接する設定がされている。一方で『さらば夏の光』においてはこうした地理的な矛盾は一切見られない。どちらの作品においても、愛と歴史(戦争)それぞれにおける「嘘」が重要な役割を果たしていることからも、地理的な「嘘」をデュラスが自らの作品に反映させるのはたしかに当然のように思われる。だが、一方であれほど丁寧にデュラスを模倣してみせた吉田監督は、故意に地理的な嘘は模倣しないことを選んだのだろうか(もはやこの映画は映像の世界地図ではないか)。あるいは監督の選択の意図が分からずとも、こうしたデュラスの仕掛けた罠が取り除かれた映画はいったいどんな効果を持ちうるのだろうか。

  もちろん先述したこの映画の制作された時代背景――海外旅行の自由化から間もない時代――を考慮すれば、この映画に担わされた役目が単なる芸術作品としてのものだけではなく、海外の観光地の広告としての役割、海外旅行を促進させるものでもあることは確かだろう。つまり、オールロケで丁寧にポルトガル、スペイン、フランス、スウェーデンデンマーク、オランダ、イタリアの街並みがおさめられたこの映画は、一種の海外旅行地図鑑なのだ。

 

 さて、詩的な表現を抜き去り図鑑を作成すること。それはかつて写真家の中平卓馬が志したことでもあった。68年という政治の季節に『プロヴォーク』を創刊し、ボケ・ブレを多用した写真を残した彼は、73年に『なぜ、植物図鑑か』によって自らのこれまでの手法を捨て去ることを宣言する。これまでの自らの作品を「ポエジー」が含まれているという点で断罪し、まるで若冲の絵画のような、無機質で対象が明白な写真を撮ることを宣言したのだ。その『なぜ、植物図鑑か』の中で、彼は次のように記している。

必然的に図鑑はポエジーや〈闇〉や〈薄明〉を受け付けない。だから図鑑はひょっとするとカタログに似ている。カタログもまたあらゆるあいまいさを排除して、商品をただ直截に指示するだけである。

 彼がロブ=グリエル・クレジオゴダールを引きながらこのように書き記すとき、そこで目指されたのは人間中心主義的な視点の、確固たる存在としての主体の解体であった。《私による世界の所有》を徹底して退けること。事物を事物そのものとして引き受けること。そうして、絶対的な《私》を中心とした視点による写真を、彼は詩的な甘ったれたものとして否定する。

 

 映画『さらば夏の光』は、海外旅行地のカタログである。私たちが飛行機を通じて消費することの出来る商品の羅列である。だが、オールロケで現実がただ写される映像とは矛盾するように、映画の台詞はあいまいで、「ポエジー」が残されている。われわれは、目の前で映像として流れ出る商品カタログと、詩的な言語のあいだで揺すられ続ける。

 この映画を見るとき、われわれは、言語と映像それぞれに担わされた相反する性質に惑わされるだろう。そのとき、鑑賞者としての《私》の足元は崩壊し、《私》は流れ出て、一つの存在たることはもはや不可能になるだろう。

 だがこれこそまさに、デュラスが「嘘」を用いて行った主体の解体である。この映画は、デュラスとは別の方法でありながら、デュラスと同じ効果を引き出している。

 

 

 

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  • 発売日: 2005/11/25
  • メディア: DVD