映画狂人にはなれない

3:アデュー・フィリピーヌ

 

【以下はのちに全編完成後同人誌に掲載予定(その際には消します)】

 

(承前)

 

 少し時系列を先走ってしまったが、こうして助監督助手や短編映画の撮影によって着々と映画界へと足を踏み入れたロジエは、当時『勝手にしやがれ』を撮影したばかりだったゴダール、そして『大人は判ってくれない』を撮影したばかりのトリュフォーと出会うことになる。ゴダールは既にロジエの『ブルージーンズ』を1958年のトゥール国際短編映画祭で見ており、「最もみずみずしく、子供っぽいほど純粋で、若々しくて感じのいい映画」という評価も文章として残している。こうしてロジエを評価するゴダールは自身の『勝手にしやがれ』のプロデューサーであったジョルジュ・ド・ボールガールに紹介し、長編撮影のきっかけをつくる。

 一方で、トリュフォーとは翌59年7月にラ・コロンブ・ドール〔ピカソシャガールたちにも愛用されたホテル・レストラン〕にて邂逅する。そこでトリュフォーもまた『ブルージーンズ』を気に入ったと述べてくれたこと、兵役に出発する前の一人ないし複数人の男の子の生活についての映画を撮影したいと思っていることをトリュフォーに伝えたことがロジエ自身によって語られている(『カイエ・デュ・シネマ』148号)。

 

 さて、ヌーヴェル・ヴァーグの代表作品のようにもあげられ、トリュフォーに「ヌーヴェル・ヴァーグの最も成功した作品の一つ」、「これまでに作られたフランス映画にまったく似てはいない」と絶賛された『アデュー・フィリピーヌ』は、同時録音で撮影されたことになっている。たしかに都市の撮影(ロケ撮影)とともに同時録音はヌーヴェル・ヴァーグの美学の一例としてあげられるために、この映画にヌーヴェル・ヴァーグの代表例という称号を与えるのは正しくも思えるが、実際に我々がこの映画を鑑賞する際に耳にする音声は実は同時録音の音声ではない。(そもそもゴダールロメールトリュフォーも初期作品はアフレコであるが。)

    ロジエが撮影の際に携帯用レコーダーで録音した音声は、実際に映画に使うには不十分なクオリティだったのだ。音と映像はずれ、不明瞭でよく聞き取れない台詞たちが録音された機械がロジエの手元には残された。結局、ロジエは『アデュー・フィリピーヌ』では後時録音を行った。だが、ロジエ自身のインタビューによれば、そもそも同時録音は行われなかったそうである〔詳細は遠山純生ヌーヴェル・ヴァーグの時代』〕。この点についてはどちらが正しいのかという検証は行わないし深入りもしないが、後時録音の困難さを証言する資料として、『カイエ・デュ・シネマ』148号(1963年10月号32~39頁)にはニコラ・ザンドによる「フィリピーヌ資料」が掲載されているので、見てみよう。この記事を見ると、いかに『アデュー・フィリピーヌ』の撮影および編集が困難を極めたかが明白になる。

 

 

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【↑実際に掲載された「フィリピーヌ資料」】

 

 

 まず「資料」によれば、映画は撮影から公開までに3年半という長い時間を要し、予算の二倍の制作費が投じられたという。こうした問題が生じた原因は、ロジエがテレビ業界での仕事経験はあったものの長編映画製作に関してはまったくの素人であったことに依る。実際、1960年8月7日にコルシカ島で始まった撮影だが、11月末の時点でロジエは既に2時間半分ものフィルムを使い切っていたのだ。これは、同時期のゴダール、シャブロルなどと比べてもあまりに長すぎるのだという。

 こうした2時間半のフィルム問題に更に先述の音響の問題が襲い掛かる。「資料」でのロジエの証言を見てみよう。

私は37000メートルのフィルム、つまり2時間半のフィルムに行きつきました。一つの選択をしなくてはなりません。さらに、台詞の少なくとも50%が聞き取れないということに気付きました。私にはレコーディング・エンジニアがいなかったので、携帯用テープレコーダーで録音をしなくてはなりませんでした。そして、〔録音後に確認してみると〕何にも聞き取ることができないのです。

 

テクストを取り戻すために、登場人物たちの唇の動きを読むのに5か月を費やしました。映画の全体が何らかの形式のせりふのもとに作られていたので、それを復元するのは不可欠でした。(33頁)

 

 さて、そもそもロジエは59年8月から10月頃には、この映画のタイトルを『最後のバカンス』として考えていたようである。そして、兵役と若い男女についてという内容は初めから抱いていたものの、同年11月には、軍隊が兵舎での撮影許可を与えるはずがないだろうという考えから一度シナリオを考え直すことにする。また、アルジェリア戦争についての内容を扱うことへの懸念もあったようだ。実際、のちに1996年にラジオ番組に出演した際には、「当時は検閲のためアルジェリアという言葉を発することもできなかったので、ほのめかしによって撮影した」ことを述べている。〔このラジオ対談は現在、France Cultureにて実際の放送を聞くことができる〕

 更には、翌60年2月の時点では、スタンリー・ドーネン〔『雨に唄えば』監督〕の『よろめき休暇』に影響を受け、『今宵、私を抱きしめて』という題でミュージカルコメディーをやりたいなどと言っている。初監督で舞い上がっていると考えると微笑ましくもあるものの、当初からロジエの脳内はゴチャゴチャで、まったくもって演出の統制などされていなかったのだ。

 

 こうしたロジエの未熟さに依る問題続きとなったせいで、ジョルジュ・ド・ボールガールは「資料」の中で次のようにロジエに対し非常に冷たい評価を下す。

 

もはやこの映画について話すことに私は興味がない。忘れ去ったことだから。[…]ロジエ氏を、私は好きでない。私が間違っていたのです。それだけです。

 

問題は多くの映画監督が映画監督の役目を果たしていないということです。どのように映画を撮るのか、組織するのかを知らなくてはならないし、テレビ番組と同じやり方では映画を撮ることは出来ないことを知らなくてはなりません。3, 4台のカメラで撮影するなんて、馬鹿げたことです。

映画では、考えなくてはいけないのです。(34頁)

 

ヌーヴェル・ヴァーグの人たちが間違っているのは、自分たちは映画を作る際に何でもできると信じていることです。実際にはそのうちの3つ4つしかできないというのに。

 

ロジエ氏は総括する頭脳を持っていないし、彼は自らの考えを結集させ、構成する能力がありません。(35頁)

 

 非難されつつも2時間半のフィルムを短縮するにあたって、61年の12月8日には、編集した各シーンをつなぐための映像がいくらか更に必要であることにロジエは気付く。だが、既に季節は冬であり、コルシカ島での撮影は困難である。結局、8日間の追加撮影はコートダジュールで行われた。だから、ルノワールから継承されたヌーヴェル・ヴァーグの美学のはずのロケ撮影による土地・風景の記録は、『アデュー・フィリピーヌ』においては捏造されているのだ。

 そして、更に翌年の62年1月8日に『アデュー・フィリピーヌ』第二版はついに完成。63年9月25日についに公開される。

 

 以上のようにして完成・上映までに困難な道を辿った『アデュー・フィリピーヌ』は、興行収入としては成功とはいえないものになる。(そもそも1961年以後のヌーヴェル・ヴァーグ作品の興行収入は、『女は女である』をはじめとして失敗ばかりであった。)だが、『カイエ・デュ・シネマ』149号(1963年11月号)に掲載された点取り表〔これは現在の『カイエ』誌にも存在し、インターネット上で見ることができる〕では、ジャン・ルーシュ〔『人間ピラミッド』監督〕が「絶対見るべき」の評価星3つを、エリック・ロメールジャック・リヴェットが「傑作」評価の最高点星4つを付け、批評的名声を得ることになる。だがこれはいずれも『カイエ』内輪の評価であるということは忘れてはならない。

 実際、ロジエはこの先で更なる困難を抱えることになるのだから。